似非医学で使われがちな主張を学ぶ

似非医学の主張に学ぶ

私は似非医学をやっている人がどんな論理展開するのか見るのが好きで、その経験の中で主張にはある程度パターンがあると考えています。

その中で用いられる主張は中々バカにできるものではなく、時に論理的に正しく見えるため主張が正しいと錯覚してしまうのもおかしくないことがあります。これは似非医学をやっている人だけが陥る問題ではなく、私も含めあらゆる人が陥っている問題です。
そのため似非医学の主張がどこで論理的に破綻しているか理解することは自身の考えの誤りを見つけるためにも役立ちます。

我々が論理的に考えるのが難しい例を見てみましょう。
日常生活でよく使われる主張に「代案がないなら批判するな」というのがあります。
Twitterでこの主張が間違っているか聞いたところ、31.5%が「間違っている」、68.5%が「間違っていない」と答えました。

`「aはbより効果的ではなかった」どっちの解釈が正しい ?
とアンケートをとったところa≦bが36.5%、a<bが63.5%でした。

このように日常生活で頻繁に使われている表現でさえ、1:2で捉え方が変わってしまいます。もし多くの人が同様に論理的であれば投票結果は片方に偏るはずです(Twitterのアンケートという制限はありますが)。

我々は論理に対して非常に弱いことを認識する必要があります。論理的な誤りは誰しも犯してしまうことで悪いことではありません。しかし適切なのは論理的な誤りを排除しようと努力することです。
ということで今回は似非医学で使われる主張で、しばしば正しいと思われている主張を紹介します。

「科学では分からないこともある」の悪用

似非医学について議論する際、説明責任に準拠すれば似非医学をしている人が根拠を提示するまたは提示しようと努力する義務が発生します。この時の根拠は科学的な根拠でも経験的な根拠、根拠となりうる意見でも良いです。

似非医学をする人が根拠を主張し、それに対しその根拠が間違っている科学的根拠を提示したとします。
この時、使われがちな主張は「科学では分からないこともある」です。科学では分からないこともあるからと根拠自体を不完全なものと見做します。
この主張が正しいと勘違いしてしまうのは「科学では分からないこともある」自体は正しいからです。EBMでは科学的証拠だけでなく、医療者の経験や患者固有の状況を含めるため、科学的証拠のみに基づいた医療にならないように「科学では分からないこともある」と言われるのは正しいです。

しかし「科学では分からないこともある」を自身の主張の誤りを認めないために使われる場合には不適切です。

無知に訴える論証

さきほどは「似非医学をする人が根拠を主張し、それに対しその根拠が間違っている科学的根拠を提示した」パターンでしたが、どちらの根拠も弱い場合にはより複雑です。

似非医学をする側の根拠がない/弱い場合、その主張は意見・考えとなり基本的には、「その手段を選ぶだけの理由がない」ことから他の効果が示されている治療よりも優先順位が下がり、もし効果が示された治療を検討せず、「効果不明な治療」ばかりしていたら批難されるでしょう。

しかし「根拠がないことは効果がないことの証明にはならない」のも事実です。
現在効果があるとされる治療も最初は根拠がない/弱い効果不明な治療、つまり意見や考えから始まります。そのため根拠がない/弱い場合でも臨床的に使用することが間違っているとは言えません。

この時どちらの立場でも犯してしまう誤りは「無知に訴える論証」です。

無知に訴える論証とは「前提がこれまで偽と証明されていないことを根拠に真であることを主張する、あるいは前提が真と証明されていないことを根拠に偽であることを主張する誤謬」と説明されます[1]。

つまり似非医学をする側からすれば、「この治療が否定されてないのだから効果ある」と主張するのが無知に訴える論証です。反対に似非医学に対して「効果が証明されていないのだから効果がない」というのも無知に訴える論証です。

この時、「効果が証明されていないのだから効果がない」とは言えないのだからという理由で似非医学の効果を主張してしまう人がいます。これは無知に訴える論証を使って無知に訴える論証をしているようなものです。

参考文献

[1]https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E7%9F%A5%E3%81%AB%E8%A8%B4%E3%81%88%E3%82%8B%E8%AB%96%E8%A8%BC

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