慢性痛の存在意義が見つからない理由
「痛みは危険を知らせるためにある」といった表現は一般的に痛みの役割を説明したり,痛みが有益な存在であることを伝えるために用いられている.この説明は主に急性痛に対するものであり,慢性痛の存在理由は「不明」であったり,「ない」と表現される.
※慢性痛は脅威から身を守るためあるといった仮説も存在する.
しかし,急性痛のこのような表現も慢性痛が不明なことも,誤った前提に基づいている可能性がある.「なぜ急性疼痛は存在意義があるのに,慢性痛の存在意義がはっきりしないのだろう」という疑問はこれを読むことで解消されるかもしれない.
人は特に幼少期に目的論的思考と呼ばれる考え方を習得し,大人になってもこの考え方は残り続ける.
キリンの首が長いことを「高いところにある葉を食べるため」と目的があるように考えることが該当する.
目的論的思考の厄介なところはまるで説明が正しく感じるところである.実際,「高いところにある葉を食べるためキリンの首が長い」という説明を信じている人は多いだろう.
目的論的思考は通常,分析的思考ではなく,経験や感覚に基づいて瞬時に判断する直感的思考に分類される.「高いところにある葉を食べるためキリンの首が長い」ことを信じる人は証拠に基づいているわけではない.
痛みに対しても同じことが言える.
「痛みは危険を知らせるためにある」というのは目的論的であり,その証拠があるわけではなく,あくまで直感的に正しく感じるだけのものである.「痛みは〜のためにある」というのはまるで神のような目的をもった人間の設計者がいるかのような表現である.
このように,意図または目的を念頭に置いて作成されたという考えを支持する証拠がない場合に,目的または設計を存在理由に用いることを目的論的誤謬(Teleological fallacy)と呼ぶ.
目的論的思考は進化論的・生物学的複雑さを欠いている.
例えば「痛みは自然選択の結果として進化したが,それ自体に意図的な目的はなく,生物が環境に適応する中で,痛みを持つ個体がより生存率を高めたに過ぎない」というのは痛みが"結果"であり,何かを知らせる"目的"ではない.
「痛みは危険を知らせるためにある」という考え方自体が誤謬であるとすれば,「慢性疼痛の存在意義がはっきりしないのはなぜか」という疑問自体が誤謬に基づいていることに気が付き,答えが見つからないのも不思議ではない.
臨床的意義
痛み教育では「神経は警報システムのようなもので,危険があるときに危険メッセージを送るように設計されている」や「脳は注意を引いて問題に対処させるために痛みを生み出す」という目的論的な表現が用いられる.
とはいえ,表現の適切さが多少失われても,医療上の目的が達成されれば問題はない.「痛みは危険を知らせるためにある」は,より厳密な表現である「痛みが結果的に危険を知らせる役割を果たすことがある」といった表現より分かりやすい.
懸念があるとすれば,「痛み=危険」と単純化してしまうリスクは考えられる.