医療は疑似科学で溢れているが,科学と疑似科学を分けるのは非常に困難である.
しかし似非医学を見極める判断を怠れば,世の中に効果のないまたは悪化するアプローチが増えることとなり,医療全体の治療の質が低下するため,様々な主張を似非医学と疑うことは必要なことである.
科学と非科学または疑似科学をどこでどのようにするのかという疑問は「線引き問題」と呼ばれている.線引き問題の歴史は長く,科学と非科学を分ける最も知られた基準はカール・ポパーが示した反証可能性であるが,結局二分することは叶わなかった[1].しかし,線引き問題が解決不可能であっても疑似科学が存在しないことにはならない.
目次
疑似科学の特徴
疑似科学の警告サインが提唱されている[2][3].これらの基準は,治療が疑似科学的であるか科学的であるかの十分な証拠になるわけではないが,注意を向けるべき主張か判断するのに役立つ.
1.反証可能性がない/検証不可能
疑似科学的な主張の最も顕著な特徴は,想定される利点が検証も反証もできない点にある.治療に関する疑似科学は,その記述が曖昧であったり,迂遠であったり,あるいはトートロジーに陥っていたりするため,評価が困難となることが多い.例えば,伝統的な中医学の支持者は,人体に「気」と呼ばれる目に見えないエネルギーが存在すると信じている.しかし,この「気」は科学的に測定する手段が存在しない.
また,このような「実際には検証が難しいとされる主張」とは別に「検証を回避する」ことで反証を認めないケースもある.似非科学の多くは検証可能であるものの,主張を否定する証拠が提示されても,支持者がそれを受け入れることはほとんどない.調査結果を無視して主張される利点を宣伝し続けたり,即席でアドホックな仮説を構築して対応することもあり,論点をずらす.例えば,治療のメリットに疑問を呈する証拠に対する典型的な反応として,「その証拠がすべての人に当てはまるわけではない」や「エビデンスでは分からないこともある」という空虚な反論が挙げられる.
2.修正しない/不変
自己修正は,誤りを減らし,効果のない治療を排除するために効果的である.対照的に,疑似科学に基づく主張は,ほとんどテストされることがなく,誤りが自己修正されることも稀である.結果として,治療法の構成要素は当初の開発時からほとんど変わらず,その基本概念も初期の構想のままである.
誤りや誤解が明らかになっても,それを修正したり訂正したりする仕組みや意欲が欠如していることもある.新たなデータや批判が提示されても,それを受け入れることなく,元の主張を固守し続ける.さらに,疑似科学の支持者は,治療法や考え方が何千年も使用されてきたという事実を根拠に,「正しいに違いない」とする論法をしばしば用いる.
3.反証となる証拠の無視または軽視
ほとんどの科学者は,ある主張が真実であることを証明する唯一の方法は,確証的な情報を集めることではなく,それが虚偽である可能性を排除することであるという原則を受け入れている.治療に適用する場合,この原則は反証可能性の概念に似ている.治療は,失敗する可能性を考慮した枠組みの中で検証されなければならない.そうでなければ,効果のない治療を修正または排除する根拠はまったく存在しない.
一方,疑似科学は強い確証バイアスを特徴としている.治療の主張は肯定的な事例のみに基づいていることが多く,これらの主張と矛盾する事例や証拠,少なくとも提唱者が認める否定的な証拠を見つけることは困難である.
4.事例証拠に大きく依存する
治療の主張を支持する証拠がある場合,その証拠の種類と質を慎重に検討することが非常に重要である.ケーススタディは,間違いなく研究において有用な役割を果たしてきた.ケーススタディの主な科学的メリットは,新しいアイデアや仮説の源を提供し,治療技術の開発の基礎を説明し,まれな障害や現象を解明できることである.とはいえ科学者は一般に,ケーススタディが治療に関する有効な推論を導き出すための根拠としては非常に弱いことを認識している.ケーススタディはほとんどの場合,再現や検証が難しい事例報告に基づいており,さらに事例は非常に選択的で,偏った解釈の影響を受けやすい.
疑似科学は,治療の主張の証拠源として,ケーススタディ・証言・個人的な経験にほぼ完全に依存している.
このような話は,特に正直そうに見えたり,他者を助けたいという純粋な願望が明らかな人々によって語られた場合,非常に説得力を持つ.問題は,誠実で善意のある人々でさえ,自分自身を欺いたり,自分の問題の改善や治癒の原因を誤解する可能性があることである.肯定的な証言は非常に簡単に作成できる.
5.主張が必要な証拠のレベルに見合っていない
主張が「話がうますぎる」と思われるほど,その主張を裏付けるために提供される証拠の種類,質及び量は,ますます重要な考慮事項となる.疑似科学者は,しばしば主張する並外れた治療のメリットについて十分な証拠を示すことはめったにない.裏付けとなる証拠を提示する代わりに,批判者が間違っていることを証明する責任があると主張する場合さえある.しかし治療の主張が間違っていることを証明する証拠がないという理由だけで,その主張が正しいと想定することはできない.つまり,無知な立場から主張が正しいと主張するのは論理的誤りと言える.
6.主張は批判的な精査を受けた証拠によって裏付けられていない
ほとんどの場合,これは証拠が査読された出版物に掲載されていることを意味する.科学者は,研究を科学ジャーナルに提出し,査読を受ける必要がある.その後,報告された結果の信頼性や重要性について,同じ分野の専門家たちが批判的に検討する.査読の結果が良ければ,報告は公開され,他の科学者によるさらに詳しい検討が可能になる.
一方,疑似科学では,通常,査読を経ずに直接公衆に広める方法が取られ,疑似科学者は販促や広告を使って治療法を広めることに長けている.例えば,エンタメ業界は,さまざまな疑似科学を広める手段として利用されてきた.こうしたメディア報道は,治療法の受け入れを早めることがある.なぜなら,大衆メディアは感情的で個人的な内容を強調し,共感を呼びやすいストーリーを作るからだ.そのため,人々はその内容を信じやすくなる.しかし残念ながら,メディアは治療法の主張が本当に正しいかどうかを疑問視することが少なく,もし疑問が出た場合でも,その後のフォローアップが行われないことが多い.その結果,疑似科学的な主張が広まると,一般の人々はその真偽について深く考えずに受け入れてしまう可能性が高くなる.
7.既存の知識から切り離されている
治療効果に関する科学的な主張は,通常,その疾患や治療法に関する既存の研究や標準的な考え方に沿っていることが期待される.一方,疑似科学的な主張は,これらの考え方とはほとんど関係がない.確立された科学的な原則や方法に基づかず,独自の自己完結型の理論として提示されることが多い.
残念ながら,このような疑似科学的な考え方は,時に新しくて魅力的,さらには革命的な視点を提供しているように見える.そのため,疑似科学的な主張は,既存の科学的な見解よりも魅力的に感じられることがある.
8.科学的に聞こえるが誤ったあるいは誤解を招くような用語の使用
治療が科学的に見える言葉で説明されていても,全く科学的でないことがある.例えば,気やエネルギー,波動,カイロプラクティックサブラクセーションなどの用語は,科学的に正しいかどうか確認することが重要である.
疑似科学の用語や概念は,難しくて理解しにくいことが多いため,これだけで科学的に見えることがある.一部の用語は,科学で使われている言葉に似ていることもある.しかし,疑似科学の用語は一貫した定義がなく,他の人が観察したり測定したりできないことが多い.むしろ,これらの用語は,精査を逃れるために,または意味がないことを隠すために使われることがある.
9.大げさな主張
多くの点で,疑似科学は現実に基づいていない.その成功は,人々の恐怖や希望に訴えかけ,偽りの希望を与える大げさな主張に依存している.例えば,「1回で治る」「わずか数分で結果が出る」などの主張は,責任ある者が言うことではない.
10.ホリスティックな主張
ホリスティックな治療アプローチは,人の部分を見るのではなく,人全体を対象に向けられていると主張する.一見すると,この考え方には利点があるように思える.
問題は,このアプローチがますます曖昧で捉えどころのないものになりやすいことである.特に,ホリスティックなアプローチで言われる複雑な関係や相互作用が特定できない場合に問題が生じる.
その場合,ホリスティックに考えるという主張はすぐに意味がなくなる.この複雑さがあるため,疑似科学者は一見「全体」を考慮した治療法を説明しやすいが,その因果関係は科学的に検証可能ではないことが多い.
疑似科学を見極めるトレーニング
これらの警告サインの他に,科学と疑似科学の違いを理解させる課題が提案されている[2].
・疑似科学の例を探させ,それが疑似科学であると考えられる理由を説明する.
・独自の疑似科学を作り上げる.
特に2つ目の方法は実際にやってみると似非医学がどのように人を誤解させるテクニックを利用しているか実感しやすいように感じる.例えば徒手療法のセミナーで用いられている可動域や筋力,姿勢といったビフォーアフターの評価は独自に作り上げた疑似科学でも変化させることができる.そうすることでセミナーでよく見るようなビフォーアフターが如何に妥当ではないか体験から理解できる.
実際に似非医学を作り,講師として解説,実演までやってもらうことを新人教育に導入するのも良いかもしれない.
おわりに
証拠の有無や主張が誤りかそうでないかだけで似非科学と科学を分けることはできない.証拠が十分得られていないものは医学にも多々あり,科学者であっても誤りは犯す.
科学と似非科学の境界は曖昧であるが,それを意識することで,私たちはより賢明に情報を評価し,行動することができる.それゆえ,疑問や異論が欠かせない.新しい仮説や視点を取り入れる柔軟性を持ちつつも,それらを批判的に検討するプロセスが重要である.
[2]Schmaltz, R., & Lilienfeld, S. O. (2014). Hauntings, homeopathy, and the Hopkinsville Goblins: Using pseudoscience to teach scientific thinking. Frontiers in Psychology, 5, Article 336. https://doi.org/10.3389/fpsyg.2014.00336
[3]Finn, Patrick & Bothe, Anne & Edge, Robin. (2005). Science and Pseudoscience in Communication Disorders. American Journal of Speech-Language Pathology. 14. 172-186. 10.1044/1058-0360(2005/018).