2017年、BMJに「International Olympic Committee consensus statement on pain management in elite athletes」直訳すると「エリートアスリートの疼痛管理に関する国際オリンピック委員会のコンセンサス・ステートメント」が発行されました。
そこにはエリートアスリートにおける疼痛管理について、より標準化され、エビデンスに基づいたアプローチのための提言が書かれています。
実際、怪我の程度から推定される痛みの回復過程通りに痛みが回復しないことはよくあります。
【用語解説】
・Overuse injury
不適切な休息によって構造的適応が起こらなかった場合に、筋骨格系の最大下負荷が繰り返されることによる損傷。損傷は、他の点では健康な組織に反復的な微小損傷(Microtrauma)が生じたり、既に損傷した組織に弱い力を繰り返し加えることによって生じることがあります。
・微小損傷(Microtrauma)
急性の臨床的損傷に至らない外傷。組織が回復しない微小損傷を繰り返すと、臨床的損傷につながる可能性があります。
期待される回復が遅れた場合の疼痛管理戦略
1つ目の原則として、期待される回復が遅れた場合に「最適な臨床管理は、損傷とは無関係に痛みに対するこれら(認知的・感情的因子)の様々な影響を継続的に評価する」が挙げられています。
これは痛みが侵害受容活動や認知的および感情的要因など、さまざまな要因の影響を受ける可能性のある意識的な経験であり、痛みの定義の付記にも書かれているように痛みは必ずしも侵害受容入力と直線的に関連しているわけではないことに基づいています。これはアスリートの怪我に関わらず痛み治療で特に慢性化のリスクが高い場合にも推奨されています。
【用語解説】
・痛み(Pain)
現在の痛みの定義は以下の通りです。
「実際の組織損傷もしくは組織損傷が起こりうる状態に付随する、あるいはそれに似た、感覚かつ情動の不快な体験(An unpleasant sensory and emotional experience associated with, or resembling that associated with, actual or potential tissue damage.)」
1979年に国際疼痛学会(IASP)はIASPが発行する公式のジャーナルPAINに”The need of a taxonomy)”を掲載し、そこにで痛みの定義を記述しました。それから41年が経過し、2020年に痛みの定義が改訂されました[a]。
痛みは意識的な経験であり、記憶、感情、病理、遺伝、認知の要因によって影響されるため結果として生じる痛みは、必ずしも侵害受容の入力と直線的に関連しません。
また痛みは危機に対するアラームセンサーの役割を持っていますが、慢性疼痛がそうであるように痛みは保護機能だけのためでもないと考えられています[b]。
【2020年痛みの定義の付記】
・痛みは常に個人的な経験であり、生物学的、心理的、社会的要因によって様々な程度で影響を受けます。
・痛みと侵害受容は異なる現象です。 感覚ニューロンの活動だけから痛みの存在を推測することはできません。
・個人は人生での経験を通じて、痛みの概念を学びます。
・痛みを経験しているという人の訴えは重んじられるべきです。
・痛みは,通常,適応的な役割を果たしますが,その一方で,身体機能や社会的および心理的な健康に悪影響を及ぼすこともあります。
・言葉による表出は、痛みを表すいくつかの行動の1つにすぎません。コミュニケーションが不可能であることは,ヒトあるいはヒト以外の動物が痛みを経験している可能性を否定するものではありません。
2つ目の推奨は「疼痛管理計画は、アスリートと負傷、回復およびRTP(recovery and return to play)の管理に関わるすべての関係者とオープンに伝達されるべきである」というものです。
特に選手が回復中に治療チームを変更する場合には、重要な時点での再評価の計画を確立し、すべての関係者に明確に伝達する必要があります。
この情報の中には「損傷と疼痛の管理のための計画」、「予測される疼痛の時間的経過」、「リハビリテーションおよび重要な中間目標地点に関する情報」を含めます。
3つ目の推奨は「急性期では、選手を安心させ、現実的な期待、負傷の正常な経過、それに伴う痛みについての教育を行うことに重点を置く」というもので、これも骨格筋性疼痛の管理で推奨されているものです。
痛みの恐怖回避モデル(Fear avoidance model)は痛みが増したり悪化したりするのではないかという恐怖のために、運動や身体活動を避け、不安や痛みの知覚の増加に加えて、活動の減少を引き起こし、体調不良と痛みの増加につながり、さらにそれがさらなる運動や身体活動を避けることになる悪循環を強化するという仮説です[2]。
このような仮説に基けば、安心感ではなく、恐怖や不安を抱えた選手は早期な運動や十分な運動を開始できないことが想定されます。
この時、医療従事者の痛みに対する、回避的な信念は患者の恐怖回避の信念を助長させる可能性があるため痛みに対する適切な知識を有していることが大切です[3]。
例えば以下のような信念は不適切です。
「痛みの強さはケガの程度に直結する」 —Dr.20%, PT11%
「痛いなら運動を続けるようには言わない」 —Dr. 17%, PT32%
「痛みを伴う動作は避けるべきだ」 —Dr.67%, PT69%
4つ目の推奨は「回復を注意深く監視し、予測された経路からの逸脱を迅速に特定し、予測どおりに回復していないかどうかを再評価する」ことです。
さらなる評価の必要性を評価するために臨床的に使用できるチェックリストを提供されています。。
【さらなる評価の必要性を評価するためのチェックリスト】
(該当する場合、回復までの予測経路から逸脱する蓋然性が高まります)
・痛みは悪化していますか、広がっていますか、あるいはその両方ですか?
・痛みは安静時ですか、それとも夜間ですか?
・他の解剖学的部位に新たな痛みが出現しましたか?
・機械的負荷で説明できないような痛みの変動はありますか?
・痛みは怪我の程度に比例していないように見えますか?
・痛みの質が変わったり、痛みがつらくなったりしていませんか?
・回復に対する選手の期待は悪化していますか?
痛みが期待通りに改善しない場合、または痛みの分布や質が変化した場合は、再評価が示され、3つの異なるが目的が示されます。
- 最初の診断が正しいかどうかの判断
- 負傷が予想どおり治癒しているかどうかの判定
- 痛みに影響を与えている可能性のある重要な非損傷因子の特定
スポーツ選手の痛みが非典型的な方法で回復を妨げる場合、理学療法士および他の治療臨床医は、生体力学、運動連鎖、心理社会的・文脈的領域など、考えられる寄与因子を評価し、対応する必要があります。
BPS model的な視点
元の文献中で明言されていませんが、このような痛みの見方はBPS model的です。
【用語解説】
・BPS model(Biopsychosocial model)または生物心理社会モデル
BPS modelの提唱者であるEngleはBPS modelを明確に定義していません。そのためBPS modelが何であるか説明する明確な表現がないだけでなく、哲学なのか理論なのかイデオロギーなのかアルゴリズムなのかフレームワークなのかヒューリスティックなのか混乱があります[d]。
EngelはBPS modelを科学であると言いましたが科学であると言えるだけの説明はされていません。 SulsらはBPS modelを「生物学的、心理学的、社会的プロセスが、身体の健康と疾患に統合的かつ相互的に関与していること」と説明しています[c]。
WaddellらはBPS modelを「生物心理社会的という言葉は不器用な専門用語であるが、それに代わる適切な言葉を見つけるのは難しい。簡単に言えば、これは個人を中心としたモデルであり、その人、その人の健康問題、そしてその人の社会的背景を考慮したものである」と説明しています。
1954年に”biopsychosocial”という語が作られ、その後1977年EngelによってBiopsychosocial Model(BPS model)が提唱されました[a,b]。
BPS modelは元々疾患(Disease)に対して提唱されたものでしたが、数年後痛みについても拡張され”BPS model of Pain”と呼ばれています。これに対して疾患と健康について言及する際はBiopsychosocial Model of Health and Diseaseと表現することもあります。 BPS modelに対して、従来の医療モデルはBM model(Biomedical Model)、日本語では生物医学モデルと呼ばれます。
上記した推奨事項4つの内3つは他の骨格筋痛でも同様ですが、2つ目の推奨の「疼痛管理計画は、アスリートと負傷、回復およびRTP(recovery and return to play)の管理に関わるすべての関係者とオープンに伝達されるべきである」はスポーツ特有の社会的な要素です。
スポーツ選手は他の痛みを有している人とは異なる社会的な制限を抱えていることがあります。
例えば選手は自信を「壊れたら価値がない商品」と考えていることがあり、選手はコーチやチームメイトに腰痛を隠す必要性を感じ、社会的に孤立することがあります[4]。
このように選手にとって痛みや怪我というのは大っぴらにしたくないか隠したい情報であることも珍しくはなく、関わる人との連携が取りにくい側面があります。この社会的な側面は同時に選手にとって重大な悩みの原因になり、スポーツを引退する人もいます。また怪我していることや痛みがあることを言えない環境では当然その痛みに対するケアも十分できず、生物学的因子への介入も不十分なものになります。
そのためアスリートにとって怪我や痛みの社会的因子というのはかなり重要な要素となります。
[2]Vlaeyen, J. W. S., Crombez, G., & Linton, S. J. (2016). The fear-avoidance model of pain. Pain, 157(8), 1588–1589. https://doi.org/10.1097/j.pain.0000000000000574
[3]Linton, S. J., Vlaeyen, J., & Ostelo, R. (2002). The back pain beliefs of health care providers: are we fear-avoidant?. Journal of occupational rehabilitation, 12(4), 223–232. https://doi.org/10.1023/a:1020218422974
[4]Wilson, F., Ng, L., O'Sullivan, K., Caneiro, J. P., O'Sullivan, P. P., Horgan, A., Thornton, J. S., Wilkie, K., & Timonen, V. (2021). 'You're the best liar in the world': a grounded theory study of rowing athletes' experience of low back pain. British journal of sports medicine, 55(6), 327–335. https://doi.org/10.1136/bjsports-2020-102514
用語解説の参考文献
・痛み(Pain)
[a]Raja, S. N., Carr, D. B., Cohen, M., Finnerup, N. B., Flor, H., Gibson, S., Keefe, F. J., Mogil, J. S., Ringkamp, M., Sluka, K. A., Song, X. J., Stevens, B., Sullivan, M. D., Tutelman, P. R., Ushida, T., & Vader, K. (2020). The revised International Association for the Study of Pain definition of pain: concepts, challenges, and compromises. Pain, 161(9), 1976–1982. https://doi.org/10.1097/j.pain.000000000000193
[b]Tracey, I., & Mantyh, P. W. (2007). The cerebral signature for pain perception and its modulation. Neuron, 55(3), 377–391. https://doi.org/10.1016/j.neuron.2007.07.012
・BPS model(Biopsychosocial model)または生物心理社会モデル
[a]Álvarez, A. S., Pagani, M., & Meucci, P. (2012). The clinical application of the biopsychosocial model in mental health: a research critique. American journal of physical medicine & rehabilitation, 91(13 Suppl 1), S173–S180. https://doi.org/10.1097/PHM.0b013e31823d54be
[b]Engel G. L. (1977). The need for a new medical model: a challenge for biomedicine. Science (New York, N.Y.), 196(4286), 129–136. https://doi.org/10.1126/science.847460
[c]Suls, J., & Rothman, A. (2004). Evolution of the Biopsychosocial Model: Prospects and Challenges for Health Psychology. Health Psychology, 23(2), 119–125. https://doi.org/10.1037/0278-6133.23.2.119
[d]#15 the Biopsychosocial Model - with Ben Cormack. Home. (2022, May 25). Retrieved December 13, 2022, from https://www.shoulderphysio.com/podcasts/the-shoulder-physio-podcast/episodes/2147653772
[e]Waddell, G., & Burton, A. K. (2004). Concepts Of Rehabilitation For The Management Of Common Health Problems.
記事情報
- 公開日:2023/09/11
参考文献を除く本文:3671文字
参考文献を含む本文:5837文字 - 最終更新日:2023/09/11
参考文献を除く本文:4160文字
参考文献を含む本文:6620文字
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